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「若者の味方」を掲げたオ○ニー思想の大学教授の話

大学には4年間通った。3年からはゼミがスタートし、大学生活の後半2年間は授業にくわえて研究する時間も多かったが、もともとの専攻とは少し異なるゼミを選択した結果、狂信的・盲信的な教授のもとで論文を書くことになる。

Fランとはいえ、卒業にむけて論文を書かなくてはならないのだけど、いま考えると、どうやら教授の趣味嗜好が大幅に加筆されたように思う。

私はとある事象について研究することになったので、海外に出向いて専門家の講義を受けたり、現地に住む人に取材したり、同じテーマの国内外のドキュメンタリー映画を探ったりして、材料は不足しながらも論文を仕上げることにした。

そして客観的な視点からの「問題提起」と、自分なりの結論のような「考え」を書いたつもりだったが、どうやら教授の思想とは異なったみたいだ。

  

当時、私たちと同世代の大学生が積極的に政治活動をしていた。

時期的には東日本大震災のあとで、夜のニュース番組でも特集されるほど話題の若者たちだった。

彼らは、彼らなりの大義名分があって行動しているようだったが、あくまでも自分とは違う考え方と行動の仕方の同世代、という認識しかなかったように記憶している。

そういう若者に限っていろんな話題の中心になるわけだけれども、私が所属していたゼミの先生は彼らを応援する側の人だった。応援というより、盲信的な感じで「若いのにすごい」「時代を作る子たちだ」的なことを言っていた。時代を作るのはこの子たちだけではないのに。

そこから熱量が増したのか、ゼミの授業がかなり偏った内容になっていく。

もともと偏った思想の人ではあったけど、私がこのゼミを選択したときよりも、露骨な言葉で説明するようになっていた。思い違いかもしれないけれど、教授が発する言葉は「伝える」という手段を超えて、「強要」に変わっていったと思う。

大学4年になり、多くの学生が本格的な就活シーズンに入っているせいか、ゼミに参加する人も少なくなっていた。

私は就活をしなかったので、早いところ論文を仕上げて提出することにしたのだが、最初に研究テーマを選択していたときよりも熱量が少なくなっていたし、論文の手をかなり抜いていたことは確かだ。

というより、知ったり考えたりしているうちに、いろんなことが変わっていったというほうが適切だと思う。

その論文にはかなりの赤が入ったわけだけど、その赤入れはきっと「教授が持っている答え」と「私が持っている答え」が違ったから。

手を抜いていたとはいえ、自分が書いた制作物に対して、論理的な説明もなく指摘をされたらFラン学生でも腹が立つものだ。

いまでこそ本当に最終稿がよかったものとは思えないけれど、当時はそこまでして教授が私たち若者に思想を押し付けることがかなりショックだった。

あなたが推す若者と、私たちも同じ若者なんですけどね。という感じ。

私のように教授に対して悶々とした気持ちを抱いていた同級生は少なくなかったようで、ちらほらと不満の声を聞くようになっていた。ただ、教授は若者の味方をする大人として私たちに接してくる。

とある日、教授の自宅で4年のゼミ生が集まる機会があった。私は参加しなかったが、ほとんどの同級生が参加したみたいで、後日それぞれが口にしていたのは教授の悪口だった。

参加した同級生からは、そこまでいう必要はないのでは、という話題まであがってくる。しかし、私たちが不信感を抱いているのは教授であって、教授の奥さんや家族はまったく関係がない。

それらまで目の敵のようにして口々に悪態をつくのはかなり筋違いだと思ったけれど、集まりに来なかったことに対して教授から嫌味を言われたのでどうでもよくなった。

すっかり氷のように冷めてしまった熱意は、再び燃え上がることもなく、卒業を迎えることになる。

 

教授自身は若者の味方のような発言をして、私たちゼミ生の心を燃えさせようとしていたのかもしれないが、人の考え方や思想までは口出しをするべきではなかったと思う。

卒業してから数年後、ゼミの級友たちと集まる機会があったので参加した。

みんな社会人として頑張っているみたいだったが、当時の教授の狂信さに話題がシフトしたのは自然な流れだったかもしれない。

大学生当時、社会経験といえばバイトくらいしかない私たちは、いまを生きるのに必死で、将来の不安と戦っている真っ最中だった。

就活で就職先が決まるかもわからない、ましてやこんなに頑張っても一生の安定が手に入る時代でもない。何か大きなことを主張しても大げさに取り上げられて、いつか自分が自分でなくなることに恐怖も感じていた。

半径10m以上の事情に対して深く興味や関心を持てなかったのは、自分たちの余裕のなさも一理あると思う。

それでも誰かに何かを押し付けられることは本当に嫌だった。

選択の余地もないほど、赤を入れられたり、強制されたりすることに対しての拒否反応が大きかったのだと思う。

きっと、教授が盲信していた「彼ら」もそういった葛藤と戦ってきたかもしれないけれど、私たちはそんな「彼ら」になることはできなかったし、大人に後押しされて理想とかけ離れた自分にもなりたくもなかった。

あれからかなりの時間が経過したが、久々にフェイスブックを開いてみると、相変わらず教授は盲信的に狂信的に彼らの思想に沿った投稿をしていた。

それはきっと「推しのため」や「ファン」であることではなく、自分の思い通りになる若者に希望を乗せたバイマイセルフ的な行為ではないのか?と思った豪雨の夜だった。